「生きた基本」を学べば、剣道はより楽しくなる

「生きた基本」を学べば、剣道はより楽しくなる(坂上康博)

打ち方とその便い方は別物。
スキのつくり方など、“使い方”を含んだものこそ基本であるベき

「まっすぐ打つ」「きれいに正確に打つ」といったことを「基本」とし、それができないうちは、試合をしてもメチャクチャになってしまう……そういう発想が剣道界では根強くあるようです。しかし、きちんとした打ちを繰り返し練習しておけば試合もうまくいくかというとそうとは限りません。むしろ、基本動作だけやって「さあ、試合に行きなさい」と放り込まれてしまった場合の方が、かえって混乱してしまい、それまでできていたはずの基本動作が崩れてしまうということが多いように思います。

繰り返し練習してきた握りや足運び、打ち方といったものが、自由に動く相手には通用しなくなるんです。ふだん、練習でやつてきたのは動かない相手に対する練習で木に打ち込むようなものだった、あるいは、応じ技の練習にしても、相手は決まった動作しかしてこないから実際の場面では生かせない……こうしたことは指導する側が、動作の正確さやスピードを習熟させることを「基本」の中心にすえ、実際にどういう場面でそれを使ったらいいかについては地槽古や試合で「自得」させるに留めた、というあたりに原因があるのだと思います。

つまり、面打ちのやり方は基本として教えても、面打ちを成功させるための「手だて」は基本と切り離して考えているんですね。教えてもらう側は、機械的な反復練留によって動作のしかたは分かるけれども、その使い方を教えてもらっていないから、試合に生かすことができないのです。

昔、大学の授業の際、初心者から「先生、打ち方は分かりました。じゃあ、それをいつ使えばいいんですか?」と聞かれてドキッとしたことがあるんですが、そのあたりに初心者指導のひとつの壁があるような気がします。「型」を重んじて一定のパターンを繰り返すのは日本の他のスポーツでも悩みの種のようで、例えばサッカーではこんな話もあります。

Jリーグができて日本のプロサッカーのレベルは上がり、外国人の監督もたくさん来日しています。その中で、2年前まで名古屋グランパスにいたベンゲル監督がイギリスに帰る直前、朝日新聞の記者に「これから日本にとって何が必要か」とインタビユーを受け、こう答えていました。「名古屋グランパスの選手はシュート練習を見たら世界でもトップクラスだ。マラドーナと同じくらいのシュートを打てる。だけど、試合になったらそれができない。これからは創造力というか、応用力が必要だろう」と。型にはまったパターン練習は世界に通用するほどうまいのですが、実戦になるとボロボロになる。練習が実戦に生きないんです。

あるいはブラジルの選手が言うには、ブラジルのサッカーは子供の頃から、みんなで遊びの中で積み上げてきたということを強調します。何が違うかといえば、遊びの中で、勝手きままな動きにもまれてきたことで、ブラジルの技術は生きたものだといえるわけです。

我々が考える「基本」とは、まさにそこを含んだもの、「いつ、どこを、どういう風に打つか」ということまで含んだものと考えて、実戦につながる生きた基本を目指していきたいと思っているんです。それを「基本技術」とし、一方で握りや竹刀の振り方といったものは「基本動作」ととらえています。

昔は私も「基本」といつたら足運びなら足運び、握りなら握り、打ちなら打ち、それぞれ一つひとつ完成させていくものと思っていました。ところが、ある人から「それは要素主義だ」と批判されたことがあったんです。こういうことでした。「水は分解するとH2Oなのに、あなたたちのはHまでとってしまっている。OとHをバラバラにしたら、もう水ではないし、基本とはいえない。最後の単位というのはもっと膨らみをもっていて、最初に教えるものであると同時に、最後まで必要なもの、つまり上級者になっても途切れないひとつの塊こそが基本ではないか」。

なるほど、そういう発想でいけば、「基本とは何か」ということも考え直す必要に迫られるんですね。

私自身、海外で、剣道をまったく知らない外国人の前でデモンストレーションをするとき、まず、伝えようとするのは、「何を争っているのか」ということです。スピードを競い合って面を打ち合うとか、力づくでやたらめったら打てばいいわけでは、決してない。「一本」の争いということを伝えたいわけです。有効打突を奪うためには、互いにスキを見つけ合い、崩し合わなければならない。

これを理解させることが、決定的に重要なことだと考えると、その一本をめぐる攻防にこそ剣道の魅力や面白さがあり、そこに最小単位の基本というものも見えてくるのではないか――我々が言ってきた「スキをめぐる攻防」とはそういうことであるように思います。典型的な例でいえば、面にフェイントをかけて、相手が防いだら胴を打つ、というようなものもありますが、それは初心者指導の根幹をなすものと言っても過言ではない。我々が大事にしているのは、「スキ予測(読み)」「技の組み立て」「構想力」といったもので、そこまでを含んでこそ、「基本」といえるのではないかと思うのです。

スキは、いつ、どういう瞬間に生まれるのか?
それを分かろうとすることは、健全な努力目標となる

我々は「スキ」というものにテーマを置いていて「剣道学校」でも勉強会を開いてきました。そこでひとつ学んだことは、剣道では、打っていく動きよりも防御する動きの方が早いということです。例えば相手に打ち込もうとする際、竹刀が動きはじめて狙った部分に届くまでの時間は、どうスピードァップしても0.3秒前後かかります。それに対して防御する動作に要する時間は、およそその半分。つまり、動作の時間からしても有利なのは防御する側なんです。そういう優劣のついた関係の中で、相手から一本を奪うためには、相手が防御できない瞬間を狙っていく必要があります。それが「スキ」です。ただし、そのスキはある瞬間に現われてはすぐに消えていくもので、一本を奪うためには、 一瞬生まれたそのスキを的確に打たなければなけません。よく言われる「見事な一本」とは、そうしたスキをいかに確実につくり出したか、あるいはいかに的確にとらえたか、ということの評価でもあるわけです。

ではどういうときにスキ(相手が防御のできない瞬関)は生まれるのか。その典型的なものを、私たちは「防御がまにあわない瞬間」「防御を間違えた瞬間」「防御への切り換えが困難な瞬間」の三つに分けてきました。ある中学校の先生は、もっと生徒に分かりやすく「ボケスキ」「よけスキ」「攻めスキ」と教えていますが、ちなみに、それをさらに細分化すると、次のようになります。

【防御がまにあわない瞬間】

(ボケスキ)

○相手の攻撃を分別できない瞬間

○近距離まで接近された瞬間

○竹刀の自由が奪われてしまった瞬間

【防御を聞違えた瞬間】

(よけスキ)

○ある打突をよけた瞬間

○ある部位のよけをやめようとした瞬間

【防御への切り換えが困難な瞬間】

(攻めスキ)

○攻撃に出ようとした瞬間

○攻撃中~攻撃が終わった瞬間

これについては以前も詳しく紹介させていただきましたが、ひとつ分かりやすい例として「よけスキ」をとりあげると、その代表的な手段として「フェイント攻撃」をあげることができます。

面を打つといぅモーションを見せれば、相手は面を防ごしうとします。すると、小手や胴や突きといった部分にスキが生まれるのでその瞬間を打ちます。「どこを打つか」について、相手に間違った情報を送るのがこの方法。もうひとつは、面を打つと見せてすぐには打たず、相手が「おや、来ないのか」と思って防御をやめて構えに戻ろうとした瞬間をつくという時間差攻撃、つまり、「いつ打つか」について相手に間違った情報を送る方法です。

できるできないではなく、こうしたらこうなる、というパターンを覚えることがここでは大事なんですね。一本にするにはさらに習熟した動作が必要ですが、大事なのはまず頭で理解すること。どういうことかというと、相手が面をよけるとスキができる、しかし、そのとき、「スキができた」と思ってから打ったのでは間に合わない。見えた瞬問はもう過去になってしまうんです。「スキは未来にある」という言い方をするんですが、こうすればスキができるという見込みを立てて(つまり未来を予測して)「スキづくり」から「打突」にいく必要があるんです。実際にはできなくても、「スキは、いつ、どういう瞬間に生まれるのか」ということを頭に叩き込んでおくこと、「分かる」ということが、基本の重要な一部ではないか、と。その「分かる」が、積み上げてきた「基本動作」と試合や地稽古で打つといぅことをつなぐ極めて重要なものだと思うのです。

話は少しそれますが、最近、燃え尽き症候群ということが言われます。原因のひとつとして、試合結果だけを目標にしてきたことによる閉塞感などもいわれますが、「試合に勝つ」という目標は、「負けたらそれで終わり」という面をはらんでいるんですね。 ″勝つために″まわりが「努力しろ!努力しろ!」と言っても努力したことでどうなるのかという筋道が見えてこないと意味がないんです。逆に、努力目標がはっきりと成果に現われれば、意欲的になれます。そのあたりは福島大学の工藤孝機氏(教育学部助教授)に「剣道学校」の特別講演(「スポーツ心理学からみた上達のしくみ」)でお話していただいたことで、我々にとっても非常に勉強になったことでした。要するに、「分かる」ということや、それをできるように練習するということは、はっきりとした努力目標にしやすくもある。ちょっと長くなりますが、そのときの講演の一部を紹介しましょう。

「人との関係を目標とする人を『パフォーマンス指向』。これに対して、自分の習熟を目標とする人を『マスタリー指向』といいます。マスターというのは習熟という意味です。先の『応答的環境』ということから見てみると、『パフオーマンス指向』のばあいは、ひとつ問題があるんですよ。『パフオーマンス指向』のばあいは、人より上になること、勝つことが目標になりますから、その人が非常に強い時はいいんですが、勝てるから目標を達成できますよね。だからやる気が持続する。では、あんまり実力のない人はどうでしょうか。そういう人が『パフオーマンス指向』をもつと、自分は実力がないわけだから、いくらやつても人の上には立てない、勝てない……いくらやったってダメということで、やる気を失っていく」(中略)「『マスタリー志向』、つまり今の自分を高めることが目標だと思っている子供は、能力が高かろうが低かろうが、もっとやってみたい、という明るい展望をもっているんです」(中略)「これまでの話は個人の目標についてですが、もうひとつ、集団がどういう目標を持つか、という問題があります。集団が『パフォーマンス指向』をしだすと、これを何といいますか?勝利至上主義つて言うんですね。勝つことが絶対だ。つまり、こういう集団だと時に努力が報われなくなる時があるんですよね。努力してこの前よりはいい試合をしたのに、「勝たなきやダメ」って言われたら、じゃあ何で自分の努力を計ればいいのか、計るものさしがなくなっちゃうんですね。ドロップアウトを生む」(後略)

防御を大事に考える理由。
打ち下ろすのではなく、振り止めることがより有効打突に近いことの理由。

スキをつくつて打つという練習法を成り立たせるためには、相手が正確によける力を持っていることが大切です。防御能力と攻撃能力が互いに伸びていく関係が理想ですが、防御の重要性を我々に改めて気付かせてくれたのが、ある水泳の指導法でした。

川口智久氏の『水泳らくらく入門』(岩波ジュニア新書)に詳しく紹介されているその方法は、私も子供やお母さんたちに泳ぎを教えるときに使ったことがありますが、まるでマジックのようなんです。90分つまり授業の1コマ分もあれば誰でも泳げるようになってしまうんですね。

その指導方法で独特なのは、呼吸から入ることなんです。今まではまずバタ足の練習をして、面かぶりクロールができるようになってから呼吸を覚えるという順番が普通でしたが、それをまったく逆にして、初心者にとってもっとも恐怖と結びつく「呼吸」から入ることで、最初に安心感をもたせるんです。そのあとで人間が一番器用に操作できる手のかき方を教え、足の動きを取り入れるのは最後です。細かい指導もたくさんありますが、これを剣道の初心者指導にあてはめて考えると、初心者の剣道に対する恐れで一番大きいのは、竹刀で叩かれる痛みでしょう。だからその水泳指導のように、恐れを取り除くためにも「防御」を最初の方で学ばせるようにしてきたわけですが、その防御ができるようになることで、スキをめぐる攻防の練習も成立させられるのです。

もうひとつ大事なのは「有効打突とは何か」ということですね。これを初心者にも明確にさせなければなりません。どういう打ちであれば有効打突になるのか、という「基本」を教えるために、我々はまず、次のような表現をしています。

「有効打突とは、(1)踏み込み足と竹刀操作が一致した発声をともなう打突であり、(2)竹刀先刃部の三分の一の部分、しかも、弦の反対側で、(3)一定の強さをもって打突したもので、(4)打突後に相手に反撃されない距離と位置にいること(残身)」

その中の打突の強さというこどですが、これは剣道の難しさのひとつだと思います。フェンシングの場合は500グラム重以上の圧力がかからないと一本にならない等とルールで明確にされています。それに対し剣道の場合も確かにある程度以上の打突の強さは必要としますが、同時にある程度の強さを越えるとダメだという上限もあるように思うんです。ぶっ叩くような打ちが昔から否定されてきたように、一定の強さじやないと有効打突とはなりません。そのあたりは初心者は感覚によって覚えていくしかないんですね。「今のは痛かった?」とか「今は触ったぐらいで感じない。もう少し強く」とか「それは強すぎる」と互いに感想を述べ合いながら最初は覚えていく。「快い痛み」を目標としながら、自分や他人の打突について鑑賞、評価のできる力をつけさせたいと思っているんです。

また、これは異論もあるかもしれませんが、快い打突を打つための基本的な考え方として、「打ち下ろさない」ということを教えます。打ち下ろすのではなく「振り止める」意識をもたせる。振り上めることで快い痛みを伴わせる感覚を身につけて欲しいと思っているんです。

あとは打突部位ですね。剣道の打突部位が極めて限定されています。私が持っているある本の中にあるイラストは、世界の格闘技の選手がそれぞれのコスチユームを着て20人ほど並んでいるのですが、順番は左から打突部位が多いもの、右にいくにしたがつて、打突部位が少なくなっていくというイラストです。その中で一番右に位置しているのが剣道なんですね。打突部位が極めて限定された競技であることがわかります。しかも、サッカーやバスケットボールのゴールのようにいつも定位置にあるのでなく、つねに移動するものを狙わなければなりません。とくに小手の動きはすさまじく、例えば振り上げた小手などは、構えたときと全然位置も角度も違ってくる。いろいろな高さで打つ場合があることも覚えておく必要があり、その限定された部位を正確に打つためには、打突の精度も高めていく必要があります。ところが、防具には打突部位が漠然としてわかりにくいという面があり、とくに小さな子供の場合、小手のどこを打っていいのか分かりにくい。先日、目標を明確にするために、小手の筒の部分にテープを貼ったのですが、それによって打突の精度ということに意識が持っていければ、と思いますね。

180度違ったトレーニング理論で開花した100メートル走の伊藤浩司選手。
さて、剣道の練習法は大丈夫?

今、基本としてっているようなことは、大正時代になって、学校教育に剣道が取り込まれたことで画一化されていった部分がかなりあったように思うんです。古流の形が剣道形に統一されたように、大人数を一度に指導するためのマニュアルをつくったわけですから、画一化された上に長い歴史の中で、そのマニュアルに対して拡大解釈されてきた部分もかなりあったかもしれません。例えば、私が子供のころ教えられたのは、左手の小指と薬指はつねに力を入れておくというものでした。しかし、憶測ですが、本来は最後に決める瞬間だけ力を入れるべきだったのが、いつのまにか“つねに”という解釈になってしまった、という可能性も考えられなくもない。ほかにも中学時代には「左足は右足の前に出てはいけない」と教わってそれを忠実に守ってきたのですが、ある日、その方法では踏み込んだあとスムーズな体重移動がしにくいということに、大人になってから気付かされました。勢いのある踏み込みというのは、右足が着地した隣間に、左足を前に出して体重を瞬時に移動することで一気にすり抜けられる、ということを教わったんです。そうすると、腰が入りやすいし、ものすごく素早く抜けられるんですね。人間の動作としても自然だと思うし、それが分かるとそれまでの左足を前に出してはいけない不自由さとはいったい何だったのか……。いまも左を出すことはタブーなのかもしれませんが、そのあたりは画一化されたことの、あれはやっちゃだめ、これもだめと制限を受けてきたことの問題点かもしれません。

先日、陸上のアジア選手権100メートル走で優勝した伊藤浩司選手は黒人選手以外では出したことのない夢の9秒台に期待のふくらむ選手ですが、彼は鳥取でトレーニングジムを開いている小山裕史氏の元、小山氏の「初動負荷理論」を実践したことで開花したそうです。簡単に言うと、それまでの一般的な理論は、蹴っていかに足を遠くに出すかということに力を入れてきたんですが、小山氏が唱える理論では、蹴るということをイメージしただけでもダメだというんですね。要は後ろの足を引きつけるというイメージを持つ。そうなると、トレーニングをする部分も全然違ってきて、それまでは腿の前側に筋肉をつけていたのが、小山氏の理論でいくと腿の後ろの筋肉が必要で、前側の筋肉は邪魔にさえなる、そんな話が雑誌『ナンバー』に掲載されていました。要するに、今までとは180度違った理論で鍛えたことで、結果が出たわけです。これだけ科学が発達しているにも関わらず、現実は、極めて単純な「走る」という動作できえまだまだ分かりきっていない。これは非常にショッキングな話で、さて、これを剣道のあらゆる動作で考えた場合、果たしてどこまで分かっているか……。考えるべきことはたくさんあるように思います。

スキ予測を含んだ基本練習というのは、考えながら行なうものです。それに対し、打ち込みや切り返しやかかり稽古を繰り返し行なうという方法があります。頭で考えるのではなく、反復し、身体に覚え込ませるという練習法が、これまでの日本的な考え方でした。しかし、『剣道日本』にも書かれていますが、かつての武専(武道専門学校)当時の練習の回想シーンなどを読むと、非常に考えていることがうかがえます。たしかに、稽古は切り返しなりかかり稽古を何べんも繰り返して習熟していくものだったようですが、一方では技を盗んでいるんですね。また、たとえば打ち込み台に向かって千本打ち込むような稽古、そうした同じ動作の反復は、逆に考えなくてもやれるということで、別なことも考えられるんです。例えば、打ち込みをする中で呼吸を意識したり、目付を意識する中で新しい何かを発見するということは確かにあったと思います。とくに、自分で発見したものというのは宝になりますから、確実に蓄積されたことでしょう。教え込まれたものを言われるままにやるというのとは違って、「自分で発見する」ことは自分の意識をかいくぐるわけだからしっかりと身につくんです。その意味では「行」のようなものにも合理性はあるのかもしれません。ただ、私としては、これまで述べてきたように、考えること、分かることを中心にすえた練習こそがより合理的ではないか、と思うんです。

『シンク・ラグビー~知的で冒険的なチ―ムプレーヘのガイド』(ジム・グリーンウツド著、ベースボールマガジン社)という本があり、これは日本に2年間滞在し、ラグビーの全日本チームを指導したグリーンウッドが日本人のために著したものです。彼は筑波大に籍を置いていましたが、日本の大学のラグビーの練習を見て、「70年ぐらい前にイギリスでやったことをそのままにやっていた」ということに驚くんですね。戦前、日本からイギリスに来て見た練習方法をそのまま日本に持ち帰って、今も変わらずにやっていた、と。早稲田はちょっと個性的だったらしいですけど、大学ラグビーは、軒並みそうしたイギリスの2倍も3倍も時間を費やした練習だった。「ハイテクで世界の最先端をいっている日本が、どうしてそんなに硬直して、技術開発がなされていないのか」と、カルチャーショックを受けるんですが、それでもつらい練習を乗り越えることで人間性を高めるというような日本的な大事な信念があるのだろう、と否定はしていないんです。だけど、もっと知的で、高い冒険性を備えたラグビーというものを彼は示唆しているんですね。2年間、日本の選手とやってきたから日本人の内面にも鋭く入り込んでいますし、日本のラグビーを変えようとするその理論は説得力もあります。別な分野ですが、剣道にも通じて、非常に面白いと思います。